適応障害の診断されたときのこと

 適応障害と診断されたときのことを書きます。

 

精神科に行く 

 仕事で精神を病み、先輩から精神科に行けと言われて精神科に行った時のことをお話しします。

 まず職場に電話しました。「今日は体調不良で休みます。」と。

 そしてタクシーで精神科に行きました。

 車を運転して医者に迎えるような精神状態ではありませんでした。

 タクシーの運転手の方は自律神経失調症を患っており、何か察してくれているような雰囲気でした。

 

 病院では待合室でずっと泣いていました。

 人の目が気になったので、病院の近くの公園に行って、ずっと泣いていました。

 先生を前にしてもずっと泣いていました。

 先生は診断書を作成してくれ、休職することを勧めてくれました。

 (ちなみに薬は処方されていません。)

 

 家に帰ってからもずっと泣いていました。

 その時の感情は…。

 言葉にすると情けないとか甘えているとか死にたいとかそんな感じだったでしょうか。

 私は、新卒ですぐに辞める人は社会人として終わっているという価値観の下で教育を受けた人間ですので、絶望感がすごかったような気がします。

 

休職→退職

 診断書を職場に提出して、その後は職場に行きませんでした。

 提出するときま上司とまともに口がきけませんでした。

 心臓がドキドキして、声が震えて、顔が上げられませんでした。

 

 その後1か月して実家に逃げ帰るわけですが、その間はしばらく家に籠っていました。

 食べ物は食べないことのほうが多かったです。

 自宅は職場から離れてはいたのですが、外に出ると職場の人間に会ってしまうのではないかという気持ちが強くて出られませんでした。

 家から食料がなくなったときは、スティックシュガーを食べていました。

 半月くらいして、実家に戻ったり、友達に会いに行きました。

(積極的に「人に会いたい!」という気持ちではなく、適応障害のサイトを観て、休んでいるときは自分の好きなことをすればいい。旅行とかもよいと書いていたので、旅行の一環として会いに行きました。※他の記事にしますが、この類のサイトは適応障害真っただ中の人は参考にすべきではないと思います。)

 

 私は、友達と会い、すぐに自分も働かないとと思い、逆に焦ってしまいました。

 

 その後、立ち直ろうと転職サイトを見たり、就職について考えましたが、すぐに自責してしまい、無理でした。自己分析とか今思うとできたもんじゃありませんでした。

 

 その後、一人暮らしが困難になり、実家に逃げ帰りました。

 実家では、最初は手伝ったり、出かけたりしていました。

 

 そのうち、いつまでそうやってんだだの色々言われ、気持ちは休まることはありませんでした。

 最後の一撃は年金の通知でした。

 その程度と思われるかもしれないですが、もう無理だと思いました。

 年金が未納ですという事実。

 自分が年金すら支払えなくなってしまったという事実、今の自分では年金も払えないという事実、将来に対する不安、自分は社会の一員にもなれないと感じ、死にたいと思いました。

 

 それからというもの、布団から出られなくなりました。

 つまり、食事は部屋まで持ってきてもらい、部屋で食べる、歯磨き風呂トイレ以外では布団から出ない生活を送っていました。(別記事にしますが、精神科にも行けませんでした。)

 

※文章にしてみて思ったのですが、当時の自分はなかなかにつらい状況にあったのかなあと思います。しかし、当時の自分は、他のうつ病適応障害の人と比較して、自分は全然軽いほうなのに立ち直れないなんて甘えている、などど考えていました。

これ、軽度の適応障害の人によくある思考だと思います。

 

以上!