適応障害の人へのアドバイスに対して思うこと

 こんにちは。がんづきです。

 このブログを読んでいるような人なら絶対に「適応障害」で検索したことがあると思います。

 そして、必ず「適応障害になったときになったときにすべきおすすめの行動集」みたいな記事を読んだことがあるはずです。

 今日はその記事について私が思ったことを書こうと思います。

 

 

 この類の記事には、セロトニンを増やすために、日光を浴びろだの食べ物を食べろだの、生活リズムを整えろだの、運動しろだの散歩しろだの、好きな音楽を聴けだの書かれています。

 なるほど、科学的に見れば正しいのでしょう。

 医者も私にそうアドバイスしました。

 適応障害でもそのくらいはできるだろうと。

 

 ですが、私は、日光を浴びることも、生活リズムを整えることも、食事することも、散歩することも、運動することも、音楽を聴くこともできませんでした。

 いや、無理矢理しようとすればできたのかもしれません。

 でもできなかったのです。

 

 なぜか。

 それは、その時の私の頭の中では、車を見れば轢かれたい、食事を見れば私に食べる資格なんてあるのか、生きる資格なんであるのかという思考がぐるぐるめぐっていたからです。

 起きている限りそういう思考に支配されているのです。

 私は音に敏感になっていました。

 夜は時計の秒針の音がうるさくて、そわそわして、不安で、眠れなくなることが毎日のようにありました。

 音楽は好きでしたが、好きだった邦ロックも辻井伸行もやかましくて最後まで聞いてられませんでした。

 昔好きだった音楽を聴くと昔のことを思い出し、今に絶望するのです。

 いくら科学的に正しくてもそんな状態の中でできるわけないじゃないですか。

 

※私が行った精神科の医者はゆっくり休めとは一言も言いませんでした。それどころか、初診の時には私が「働きたくない」と漏らしているのに、「あなたくらいの能力があればすぐ働けるでしょう。私がどこか紹介しようか」などど言うのです。

 当時の私は絶望しました。またあんなつらい思いをして働かねばならないのか、働かないと生きる資格はないのかと。

 そうやって、私はますます自責を深め、どんどん布団から出られなくなっていきました。

 そのうち医者にも行かなくなりました。

 

まとめ 

 この記事で私が言いたかったことは、世の中にあふれ返っているそのような記事は、今まさに精神を病んでいる人は真に受けるべきじゃないということです。

 今、適応障害で苦しんでいる人、そんなアドバイスは犬にでも食わせてしまいましょう。

(仮に、今まさに適応障害で苦しんでいる人が私の記事を読んだとしても、私の言うことは聞いてくれないと思いますが。過去の私もそうだったし。)

 

 つまり、つらいなら日光なんか浴びなくていいし、生活リズムも整えなくていいし、食事もしなくていいし、運動も散歩も旅行もしなくていいし、音楽も聞かなくていいのです。寝られないなら寝なくていいのです。

 つらいならツイッターとかでつらいつらいとつぶやいてみてください。死にたいなら死にたい死にたいとつぶやいてみてください。

 なんなら私にその気持ちをぶつけてみてください。 

 それでは。