何もできない日
こんにちは。
今日は何もできません。
朝から体が重く、目が疲れ、背中が痛いです。
ほぼずっと布団から出られず、夕方になって起きられるようになりました。
(寝てるときはYouTubeで喧しくない何かしらの動画を流しています。)
在宅ワークは動画の内容をまとめるタスクをやってみました。
感想を書くわけでもないので、私の苦手なジャンルではないと思います。
ですが、完成して見返してみたら依頼の条件を満たしておらず、修正するのも大変なので最終的に断念しました。(昨日から何をやっているんだ・・・。)
今日はブログで自分の気持ちを書き出せただけ、上出来としましょう。
読んだ本にも、何もできない自分を責めるのは良くないと書いてありました。
働けもしないくそみたいな高学歴ニートだけど、何も悪いことしてないし、別によくね?
以上。それでは。
在宅ワークをやってみる
こんにちは。
人と関わらないで生活したいと思い、その手段として在宅ワークがあるなあと思い、手を出してみました。
まずは、簡単な「タスク」というジャンルの仕事をやってみました。
内容はアンケートに回答して200円のもの。
アンケートといっても最低でも1200字ほどの文章を考えなければなりませんでした。(6つのテーマにそれぞれ200字以上で回答するもの。)
単純計算で1文字約0、15円。
お世辞にも良い案件とは思えません。
ですが、最初だし、簡単そうなものを、勉強と思ってやってみました。
その結果・・・
・・・
・・・
1時間集中して取り組み、時間切れで作業を完了させることができませんでした。(無力感がすごい。)
自分の性格上、1つのテーマごとに(悪い意味で)真面目に考え込んでしまい、想像以上に時間がかかってしまいました。
働いていた時も同じようなことやってたなあ・・・。
改めて、0から物事を作り出す類のものが苦手だなあと思います。
子供のことからずっとそうでした。作文とか工作とか。
これは完璧主義とかそういう次元の問題ではなくて、もともとの脳の特性がそんな感じなんだと思います。
学生の頃は、できなくても時間をかけることでクリアできてしまうので、なんとかやれていました。(もっと言うと、私は良い大学出て難しめの資格取得して、人からは優秀と言われる部類の人だった。)
しかし、会社ではそれは通用しません。(通用しませんでした。)
私にはテープ起こしとか、与えられたことをきっちりこなす系の仕事が向いていると思います。
〇 まとめ 〇
今日学んだこととしては、簡単な作業と言われている「タスク」案件でも、自分に向いてない作業がある。
向いてない作業をやってもコスパが悪い。
作文する系のタスクは敬遠すること。
以上。それでは。
布団から出られるようになって1か月くらい経った?
適応障害になって、布団から出られなくなって、出られるようになって、たぶん1か月くらい経過したでしょうか。
がんづきと申すものです。
リハビリとしてブログを書いてみようと思っていたのですが、1週間程度で更新できなくなり、習慣化できませんでした。
これまでというもの、一日中起きていられる日は半分くらいで、途中で横にならないと気分が沈んだりしてだめでした。
起きられるようになったらなったで、待ってましたと言わんばかりに「外に出ないか」「次のことは考えているのか」と・・・。
そういう(本人的には何気ない)言葉一つ一つでまたストレスを受け、精神が滅入るのを感じます。
一人暮らししていくのに必要な十数万程度稼げるようになって、早く実家を抜け出したいです。
私は、年上の人(特に男性)とコミュニケーションを取ること、時間や人に拘束されること、責任のある立場、人のために行動することが苦手です。
今までこれらのことから目を背けて、みんなも同じだから我慢しよう、いつかはできるようになると思いながら生きてきました。
でも、適応障害になってみて身に染みて実感しました。
自分にはそういう生き方は無理だ!
向いてないものは向いてないし、向いてないなりの生き方があるんじゃないかなと。
(精神科では「別に普通」を言われたけど、日常生活に支障を来たさない程度にASDの傾向があるのだと思う。それが社会に出て悪条件が重なり、顕在化したと。)
そんなわけで、今年は人と関わらず生活できるようになりたい。
適応障害によって捻くれてしまったのか、自分を受け入れることに成功したのか、よくわかりませんが。。
ブログも気張らずに適度に自分の備忘録、感情のはけ口として続けられればと思います。
よろしくお願いします。
適応障害の診断されたときのこと
適応障害と診断されたときのことを書きます。
精神科に行く
仕事で精神を病み、先輩から精神科に行けと言われて精神科に行った時のことをお話しします。
まず職場に電話しました。「今日は体調不良で休みます。」と。
そしてタクシーで精神科に行きました。
車を運転して医者に迎えるような精神状態ではありませんでした。
タクシーの運転手の方は自律神経失調症を患っており、何か察してくれているような雰囲気でした。
病院では待合室でずっと泣いていました。
人の目が気になったので、病院の近くの公園に行って、ずっと泣いていました。
先生を前にしてもずっと泣いていました。
先生は診断書を作成してくれ、休職することを勧めてくれました。
(ちなみに薬は処方されていません。)
家に帰ってからもずっと泣いていました。
その時の感情は…。
言葉にすると情けないとか甘えているとか死にたいとかそんな感じだったでしょうか。
私は、新卒ですぐに辞める人は社会人として終わっているという価値観の下で教育を受けた人間ですので、絶望感がすごかったような気がします。
休職→退職
診断書を職場に提出して、その後は職場に行きませんでした。
提出するときま上司とまともに口がきけませんでした。
心臓がドキドキして、声が震えて、顔が上げられませんでした。
その後1か月して実家に逃げ帰るわけですが、その間はしばらく家に籠っていました。
食べ物は食べないことのほうが多かったです。
自宅は職場から離れてはいたのですが、外に出ると職場の人間に会ってしまうのではないかという気持ちが強くて出られませんでした。
家から食料がなくなったときは、スティックシュガーを食べていました。
半月くらいして、実家に戻ったり、友達に会いに行きました。
(積極的に「人に会いたい!」という気持ちではなく、適応障害のサイトを観て、休んでいるときは自分の好きなことをすればいい。旅行とかもよいと書いていたので、旅行の一環として会いに行きました。※他の記事にしますが、この類のサイトは適応障害真っただ中の人は参考にすべきではないと思います。)
私は、友達と会い、すぐに自分も働かないとと思い、逆に焦ってしまいました。
その後、立ち直ろうと転職サイトを見たり、就職について考えましたが、すぐに自責してしまい、無理でした。自己分析とか今思うとできたもんじゃありませんでした。
その後、一人暮らしが困難になり、実家に逃げ帰りました。
実家では、最初は手伝ったり、出かけたりしていました。
そのうち、いつまでそうやってんだだの色々言われ、気持ちは休まることはありませんでした。
最後の一撃は年金の通知でした。
その程度と思われるかもしれないですが、もう無理だと思いました。
年金が未納ですという事実。
自分が年金すら支払えなくなってしまったという事実、今の自分では年金も払えないという事実、将来に対する不安、自分は社会の一員にもなれないと感じ、死にたいと思いました。
それからというもの、布団から出られなくなりました。
つまり、食事は部屋まで持ってきてもらい、部屋で食べる、歯磨き風呂トイレ以外では布団から出ない生活を送っていました。(別記事にしますが、精神科にも行けませんでした。)
※文章にしてみて思ったのですが、当時の自分はなかなかにつらい状況にあったのかなあと思います。しかし、当時の自分は、他のうつ病や適応障害の人と比較して、自分は全然軽いほうなのに立ち直れないなんて甘えている、などど考えていました。
これ、軽度の適応障害の人によくある思考だと思います。
以上!
最近思うこと
こんにちは。がんづきです。
昔のことを語りたいです。
今までは、私の一日はずっと勉強、ずっと仕事でした。
学生時代は本当に遊ぶことはしなかったなあ。
友達はそれなりにいました。
何もない日は、自分から何かの予定を入れることはなく、かといって自宅で趣味とかに没頭することもなかったような気がします。
何もない日はひたすら勉強していました。
別に苦痛ではなかったし、それが人と比べて秀でた自分の能力、強みだと思っていました。
実際、受験とか資格取得の上では役に立ったと思います。
しかし、社会人としては、そんなもの必要ありませんでしたね。
大事なのは、いかにストレスに耐えられるか、ストレスから回復できるかだと思います。
それができていれば、普通に社会に適応できるし、社会に適応できれば並み以下の能力でもなんとなく社会人として生きていけると思います。
…話を戻すと、ひたすら勉強していましたね。
たまに遊んだり、勉強をさぼったりしたときは、開放感よりも罪悪感が強かったですね。
冗談ではなく、23時くらいまで勉強して自宅に帰り、風呂に入り寝る、という生活を送っていました。
社会人時代も業務量が多く、仕事を捌ききれず、だいたい2時とかに帰ってました。
遅いときは4時を回っていました。逆に4時に出社して仕事した時もありました。
電通自殺の類の方の気持ちはすごくわかります。私はその一歩手前にいたと思います。
今、勉強も仕事もしていません。
すごく一日が長く感じます。
特に夜。